URLはダミー
「全ての命は無意味に殺してはいけないよ。どんな動物の命もね。でも、生き物(人間)は自分の命を守らなければならないんだ。だから、伝染病の原因になる害虫は、命を守るために殺すことも出来る。自分に襲いかかる動物は、自分をまもるために殺すことが出来る。自分の命を維持するために、食用にする動物は殺すことが出来る。でも、殺したら食べなければならない。全ては、自分の命をまもるためにね。…大自然の動物たちも、みんな同じルールで生きているよ。」
…と、答えます。
Yahoo!
URLはダミーです
野生の動物は、自分が生きるのに本当に必要な動物しか殺しません。だから人間も、本当は「生きるためにどうしても必要な、たとえば、お肉をもらうとか、そういうのに必要な動物を、ごめんなさい、ありがとうっていいながら殺させてもらうんだよ」っていう感じではないでしょうか。。
犯罪かどうかという点で言えば、絶滅危惧されている、もしくは国鳥など以外は積荷は問われないだろうと思いますが。。
http://news16.2ch.net/dqnplus/
2chbbs..
URLダミーです。
下記、
(○)命をいただくための家畜や野生動物、害虫
(×)ヒト、愛玩動物
を一瞬考えたのですが、以前、餌金(金魚)の命を粗末に扱った馬鹿(「写真や」)、という話題を見たのを思い出しました。子供の土俵に乗らず、
どんな命も粗末にしてはいけない
(食べないなら殺さない、駆除する必要ある動物なら増やさない)
と言ってあげてください。ポイントは、
食べるためか、害があるかでない限りダメ
で。
子供はどんな動物も殺してはいけません
大人も同じ。しかし、大人はそれぞれの考えをもっている。
だから、子供の間は、考えつづけてください。
と、いうところかも。
URLはダミー
基本的に殺してよい動物はいません。
天然記念物などいますが、それらの動物は今回の場合は、仕方がないと思います。
人命にかかわる場合、最終手段として殺すのも仕方がないのでは。
http://www.hatena.ne.jp/1101423669
人力検索はてな - 学校の遠足で、あなたのお子さんが牧場へ行ったとします。牛や豚や鶏との「ふれあい体験」の後で、先生が「牛肉や豚肉や鶏肉を食べるということについて、この機会に、あら..
殺していい動物も殺していい動物も存在しない。
簡単で言えばどの動物も自分勝手で、自分にとって必要なもの、不必要なもの、なんでも殺してしまう。
人間は牛のお肉を食べたりしているけど、それには牛が必要で、
人間は牛の命を奪ってまで肉を食べている。
だから牛には感謝しなければいけないよ
というようなことを言うと思います。
URLもある程度参考になるかと。
livedoor
動物愛護法という法律で決められているから、すべての動物は殺すのは罪になる。
ただし大人の人が決められた仕事で殺す場合は罪にならない。
アニマルライツセンター|動物実験、動物虐待、非倫理的殺害、工場的畜産に反対する動物の権利団体
人に限らず動物は他の生物等を殺奪しなければ生きて往けません。
自分の生命を維持する為の防御、攻撃は必要です。
無意味な殺略は横暴です。
食物連鎖に叶っていれば許されるのです。
この必要不可欠な食物連鎖を子供に説明するのは難解でしょう。
従って、子供にはこの動物を本当に殺したいのかの納得するかしないかの違いを教えると良いと思います。
殺される動物の気持ちを理解させてあげる事は安易に殺す事をさせないものであるでしょう。
納得の上での殺しは良い事を教えてあげて下さい。
@nifty
「本当はどんな動物も殺しては行けない。でも、どんな動物であっても、物を
食べなければ、栄養をとらなければ生きていけない。その事に常に感謝をして
生きていかなければならない。
また、それは自然界の摂理で、強い物が弱い物を食べる、その弱い物もまた、もっと
弱い物を食べる。これによって一部の動物
が増えすぎるのを抑えている。
害虫を殺すことも同じ事で、増えすぎると自然界の数のバランスがくずれそれによって
病気が増えてしまうから、仕方のない事なんだよ」
って感じで答えます。
地球生物会議ALIVEのホームページへようこそ!
まず第一に教えておきたいことは、地球や宇宙は人間だけのものじゃありません。植物と昆虫の関係(花粉を昆虫が運んだりするように)のように動物も植物も鉱物も海や川や風や雨といった自然現象もそれぞれがみんな少しづつ絡み合ってこの地球というお星様さまを動かしています。だから、坊やだってこの星の王子様のひとりなわけだけども、この地球という星も他の星と一緒になって宇宙を動かしているんだよ。人間だってこんなにたくさんいるし昆虫も植物も動物もほんとうにいろんな種類があるでしょう。人間も動物もそれぞれいろんなものを食べないと生きていけません。だから人間は大地に種を蒔いて丁寧に世話をしてパンやお米やおそばやおうどんの素になるものを畑で作ります。同じように牛や豚や鶏や羊なんかも生まれるときから人間がお世話して大きく育てて人間たちがみんなで分け合って食べることにしています。お魚もそうやってお米やお肉と同じように人間がいろいろとたくさんお勉強をして実験や研究を重ねて養殖技術を積み上げて人間がみんなで食べられるように工夫をして育てています。地球の上には陸と海があるように陸に生きている動物や植物と海に生きるお魚やわいめさんみたいな海草とかがあります。陸にいる動物や植物は人間がきまりを作って殺したり捕まえてはいけないものを決めています。あんまり捕まえたり殺したり木を伐ったり花を摘んだりするとこの地球上からひとつもいなくなってしまうような数が少なくなりそうなものは、人間たちが相談して取るのはようそうと決めました。海でも鯨やいるかなんかはいまそういう決まりを地球上の人間たちが一所懸命相談したり研究したりして決まりを作ろうとしています。決まりができるまでは、獲る数も研究のために使う分の少しだけにしています。あとはいろんな工夫をして、その動物がいなくならないように何月から何月までとか時間を決めてつかまえるようにしているんだよ。さっき、地球にはいろんな動物や植物や昆虫やばい菌や自然現象が絡み合って助け合って生きているってお話をしたけど、そういうのを難しい言葉だけど「生態系」って言うんだよ。地球って星の上に生きてるいろんな生命みんなの生き方、生活のかたち全体とかそのバランスとかって説明しようかな。むずかしいね。お母さんもよくわからないなあ。ひとつの種類の動物がもし一匹もいなくなったら、その動物と仲良くしてた動物たちは淋しくなって悲しくなるでしょ。そうすると地球の上の生態系にもそういう気持ちが影響してみんなが悲しくなったり苦しくなったり困ったりしてしまう。そうならないように生態系というのを大事にして、人間はいろんな植物や動物をお料理して食べて、この地球や地球に住む人間や動物や植物や昆虫や自然現象のためにいろんなお勉強をしたりお仕事をしたりしてるんだよ。だから坊やもごはんをたべるときは「どうもありがとう。いただきます」ってきちんと礼儀正しくお礼をいって、ごはんやおかずを何でも食べて元気に大きくなって、しかりお勉強して、お仕事して、お母さんとお父さんを楽させてくれやね。っとこんなとこですね。殺すのには条件があるというお話でした。面倒見たものは殺していい。絶滅に瀕したものは殺してはいけない。無計画な乱獲はいけない。とまあ、そういう話をしたわけですね。どうでっしゃろか?
WWFジャパン
Welcome to Rainforest
◆これはわたしの愛読日記
代表 南 研子のアマゾン日記
(2001年12月よりホットワイアードにて「先端人日記」公開)
2004年2月から当ページにて再開
まずは「有害鳥獣」という区分があることを教えます。
それは人間が生きていく上で、人間の生活に害を及ぼす生き物がいるということ、
そしてそれはしょうがないけども殺してもいい、と多くの人が思って決めたことなのだ、ということを伝えます。
「じゃあ可愛いウサギも殺していいの?」となるかもしれません。
それはエサを与えてペットとして可愛がる分には殺してはいけないんだけれど、人の作ったものを勝手に食べたり盗ったりするから殺さざるを得ないのだ、と教えましょう。
人間だって悪いことしたら怒られるし、罰せられるでしょう?
それと同じで人間に対して悪いことをする生き物を罰を受けなきゃいけないんだよ、と。
ただむやみやたらに自分以外の命を奪うのはいけないことなんだと、
人間に対して無害な生き物については簡単に殺してはいけないんだと、
或る生き物の命を奪うにはそれなりの理由が必要なのだ、
ということを教えればいいのではないでしょうか。
生命を奪うのは基本的に良くないことだが、場合に応じて人間のみそれが可能なのだ、ということが教えてあげられれば良いと思われます。
基本的には、人間の命を保つのに必要最低限のものは殺してもいい(牛、豚、鶏、魚など)です。ただし、これらの食べ物を粗末にすることは、それらの命を無駄にする事なので(殺さなくてもいい動物を殺す事と同じ結果になるので
やめること。また、昆虫採集で昆虫を殺す事は学習上必要とされているためにある程度殺しても良いとされていますが、悪徳業者により、美しいチョウなどを大量に採集し売買すると言うのは良くないと思います。いずれにしても、人間と動物との環境を保つために殺したりするのは自然の理ですが、理にかなわない殺し方はいけないとおもいます。
まずは子ども向けに。
『生き物で「殺していい」のと「殺していけない」との境界を引く、その科学的根拠なんてのは、無い。つまり「人間の社会」の外部に根拠を求めることが出来ないのだ。
「絶滅危惧」なんていうのも、基本的には人間にとっての美意識・価値観からではないか。
人間は古くから神様がそれを決めて守らせていると考えてきたけれど、わたしには信仰がないので、神で説明するわけにもいかない。
「殺していい」というのも「殺してはいけない」というのも、「野生を大事に」なんてことでも、実はどこまでも人間社会での都合が基準になっているに過ぎない。
その君の疑問は基本的には、「動物にとっての問題」にはなりえず、わたしたち人間さまのための勝手な問題に過ぎない。しかし、人間の「勝手」だからといって思考停止する愚は犯してはならない。君がたとえば「この動物を殺したくない」という、あまり根拠ない感情があって、侵しがたい重みがあるということ。それを「自分で考えること」そのものに、「(あくまで)自分自身にとって重い意義」を見出すべし。それが倫理というものだ。「もの言わぬ野生動物のため」とか神秘の世界に勝手に「自分がこう感じてしまう」根拠を求めてはならない。偽善である。あくまで人間の側が問題として抱えこむべき問題に過ぎないと銘じるべし。』(以上を対象年齢によって語尾等アレンジ)
--------------------------------------------------------------------
以下は大人向けの補足です。
たとえば、「ペットとなる素質」の動物については、“その他の動物”と違って人間と動物の境界にあるような存在です。
まず、「タブー意識」とは上記の本によれば「境界線を侵犯してはならない」ことへの道徳の名を借りたパニック的感情であると。
ペットというのは動物であっても「人間並み」に愛されるという、リーメン(境界)上に位置する「曖昧な存在」としてとらえられるため、
人間社会にとり「これを侵してはならない」、一種神聖な(?)生き物と位置付けられるのです。
さらに、「道徳」に関する補足。
犬でも猫でも、動きまわる小動物がいれば、攻撃欲を刺激されてただ弄ぶための狩りをするような性質を備えています。
人間は宗教的超越的価値を離れて、道徳を説くと、おおむね「社会的・法的に生存価値を認知された生命は殺されるなかれ」に論理的には帰着をみてしまう。どこまでも人間の社会の内側で問題にする問題に過ぎないのです。
動物の価値とて同じく、野鳥指定、天然記念物、犬猫のペット、ワシントン条約、といった法の枠が、命の重さは社会的に決められています。
近代の哲学・政治学から、“法的主体”を備える「法的市民」という概念が登場し、法的主体は殺してはならない殺されてはならない、その自然権を備えるのだと考えられるようになりました。人権とか人道とか、そういうものです。
(ちなみに哲学で、法的主体に対してホモ・サケルという「持たぬ者」の概念が湾岸戦争以降か言われるようになりました。たとえば空爆に甘んじるイラクの住民は、事実上国際的に法的主体ではないとみなされてるのだということ。)
自然権とは、「万人の万人に対する闘争」となる無法・無政府状態から、生存のための権利(自然権)を守らせるための
法システムと君主・国家が必要なのであるという国家観です。
無法状態ではめぐりめぐって結局は自分の不利益なのだと、殺すなかれについて「合理的帰着」による説明の最もオーソドックスなパターンです。「エコ」にまつわる「身勝手な感じ」のきまりの悪さも、どこか人間の健康や経済的利益に帰着するからでしょう。
そして、道徳の有為の根拠を外部に求めれば、古くからそれは人間の社会の「外部」から示唆を与える「神」を求めることに通じるかと。
人力検索はてな - 質問一覧
ダミーURLです。
基本的に殺してはいけません。ですが人間が生きていく上で必要なモノはしかたないでしょう。魚・牛・鳥・豚・かなあ。食べる分以上殺したらいけませんって自分の子供には教えたいですね。
虫で人間に危害を加えるものは必要とあれば殺してもいいでしょう。カブトムシや蝶々・ミミズは無害?ですがゴキブリ・ハエは不潔な所に現れるので退治してもいいでしょう。難しいですね。
人間と同じように、動物も命ある生物なのだから、殺して許されることは決してありません。でも、人間と動物が向かい合った時、守られるべき存在は人間なのです。それは、人間の立場から見た解釈ですが、「生きる」ために必要なことだからです。
人力検索はてな
私なら、こう答えます。
「この世に、殺していい生き物なんて一つもないはずだよ。
どんな生き物だって、危険を察知すると逃げるんだ。
ミドリムシみたいな細胞一個しかない微生物だって、
あれ、つつくと逃げるんだよ。
脳みそなんかないのにね。
心が恐怖を感じるんじゃない。
そうやって身を守って種族を絶やさないようにしていく、
きっとそんな自然の仕組みが、
細胞一個の原始的な動物にも備わっているんだね。
そうやって、地球の生き物は、
今日まで存在し続けてきたんだ。
もちろんそんな自然界にも、
今までに殺すということは無数にあった。
食べるため、自分の身を守るため、
そして気付かずに他の生き物を殺していた
なんていうことも無数にあったはずだ。
私たちだって食べるためにたくさんの家畜を殺しているし、
自然の生き物だってどんどん獲って殺している。
たとえばイワシなんてね。
最も漁獲高が多かった頃は年間400万トンも獲って殺してた。
あんなお魚、一匹何グラムだろうね。
それを400万トンだよ。
すごい大量殺戮だ。
食べるためだからいい?
そんなことはない。
そうやって無軌道に殺してきたおかげで、
今じゃ最盛期に比べて1%しか獲れないないんだよ。
あれだって、殺していいかと言われたら、
けっして『いい』わけはないんだ。
殺されて喜ぶイワシは一匹だっていないだろうし、
地球環境全体から見ても、乱獲は危機的状況を作り出した。
命のネットワークは全地球がひとつながりだから、
生態系のどこかひとつが崩れれば、
それを獲って殺していた人間にだって被害が及ぶ。
私たちが道を歩いていて知らずに虫を一匹踏みつぶしただけだって、
巡り巡っていつか自分に何かの変化となって
返ってくるかもしれないんだ。
結局そうして考えていくと、
殺していい生き物がこの世に存在するわけではなく、
やむなく、仕方なく、あるいは不可抗力で
『殺してしまうことがある』。
そういうことなんだと思うんだよね。
自分が食べるために仕方なく。
自分が生きるために仕方なく。
自分の身を守るために仕方なく。
知らず知らずのうちに仕方なく。
避けられないものは仕方がない。
でも、それは殺していい、ということとは全く違う。
心のある生き物も、心なんて無さそうな生き物も、
みんな必ず何かの存在の意味があって存在している。
全てが尊い命なんだ。
ただそれを仕方なく傷つけ、殺してしまうことはある。
もう一度言う。
食べるために仕方なく。
生きるために仕方なく。
身を守るために仕方なく。
知らず知らずのうちに仕方なく。
殺していい、ということと、
仕方なく殺していくということの違い。
そこを考えていこう。
どういう場合に殺していいかという答えを探すことも
またむずかしいことだけど、
とりあえず最小限度に抑えていかなきゃならない。
このことだけは心にとめておきたいと思うよ。」
①気づかないだけで、無意識に殺していたり食用にしたり、多くの動物の犠牲の上に生きている(それはどんな動物でも同じ)。
②人間はルール(法律やマナー)を守ることで、社会というコミュニティを平和に運営しようとしている。地球規模に拡大して考えると、人間と動物という関係においても、ルール(必要以上に殺さない)は必要。
③よって、無闇に殺してよい動物などいない。
これを子供に分かりやすく話します。
「犠牲」というと、いささか倫理的ではありますが、対子供というのであれば仕方ないかな、とも思います。
動物側からのルール破りといえば、最近の事例でいうと鹿による林害だとか熊の人里出没ですよね。人間寄りのルールになってしまいますが。
ちょっと趣旨から外れるかもしれませんが、動物は殺してはいけなくて、植物は殺してもいいのでしょうか?そういう観点から考えていくと、自然と答えが出てくるような気がします。
その昔、僕の知り合いに「動物を食べるのはかわいそうだけれども、植物さんは寛大だと思うの」と本気で言っている人(女性)がいました。大学生だったんですけれど。
最近の研究では、植物も傷を付けられたりすると、電気信号を発して、反応していることが報告されています。つまり、植物だって生きているし、痛みも感じている、ということです。そこのところは動物と変わりません。
それでも、すべての生き物は、他の生き物を食べていかないと生きていけない。これをどう思うか、ということは、実は動物としての人間と、知性を持った人間のぶつかり合いである、と思います。どちらも人間として正常なのです。
だとすれば、ここからは私見ですが、どうせ生き物を食べるのであれば、大切に、そしてどこかで感謝を感じながら食べるべきだろうと思います。こう考えると、食べ残しなんてできないです。
表題の質問に答えるならば、「殺していい動物はいないし、殺さないですむ動物もいない」と答えるしかないように思います。これで子供が納得するかどうかわかりませんが…。
仏教徒でないと難しいかもしれませんが…
「食べるための、必要最低限の殺生のみを行う」というところでいかがでしょうか?
実際に子供自身はどう思っているのかを聞いてみたいと思います。具体的に、例えば「牛」「熊」「害虫」など一つずつについて子供の考えを聞き、それに関する理由も聞きます。子供と大人の考え方が全く異なることも考えられますから。
その話を聞いた上で「どんな動物の命を奪う権利も、本当は人間は持っていない。しかし動物のお肉を食べたり、卵を食べたりしなくては人間は健康に生活することができない。また、人の生活に脅威を与える動物に関しては駆除をしなければ生活が脅かされる場合もある。そういった特殊な場合に限り、他の生き物の生命を奪うこともある。しかしそれは人間の定めた規則に基づいて許されたことであって、本当は、どんな生き物も大切な大切な命を持っている。そして、全ての生き物は食べたり食べられたりというライン(食物連鎖)で繋がっていて、この世に存在してはいけない命なんて、一つもないんだよ」
と私であれば答えるであろうと思います。あ、あとは「そういうわけだから食べ物は粗末にしないように」というオマケもつけると思います。
Yahoo! JAPAN
(URLはダミーです)
もし質問を受けたのが自分でしたら「あなたはどんな動物なら殺してよくて、どんな動物なら殺しちゃいけないと思う?」とまず問いかけてみます。
質問した子供さんの動物に対する認識や、まだ幼くてもなんとなく持っている価値観などをまずこちらも知ってから、その質問がどのような所から起源したのかを理解し、それに合った回答をしていくと思います。
例えば、それが「牛や豚は食用に殺されているのに、犬や猫はかわいがられている」という疑問が起源でしたら、わかりやすいように図などを用いて食物連鎖の話をすると思います。動物を食べる動物もいて、その動物を食べる動物もいる。でも全ては回って自然に還り、また新しい動物の食料になるんだよ、と。
更に犬やねこをかわいがることについて、その共生の歴史から現在までを伝え、フォローすると思います。
そしてその話を伝えてから更にその子供さんの意見も聞いてみて、疑問があれば話し合いをすると思います。
思うに難しい質問ですので、これが正しい答えというのを見つけるも難しいかもしれません。ですので、自分だったら、というサンプルをあげてみました。
http://www.rikkyo.ne.jp/grp/philocat/nekoma.htm
猫魔みゃう氏の生活と意見
URLはベジタリアンの主張の概要が書かれたページのものです。こういう機会に知っておくのもいいのではないかと思い、探してみました。
子供に対する返答はこうです。
「殺してもいい動物はいないんだよ。江戸時代の途中まで、日本人はお肉を食べないで生きていたし、お魚を食べなくても、お豆なんかを代わりに食べれば、栄養が摂れるから生きていくことが出来る」
「だけど、ゴキブリは気持ちが悪いし、不潔だし、蚊に刺されるとかゆくなるだけじゃなくて、病気をうつされることがあるかもしれない。そういう人間にとって嫌な生き物を、殺さないで追い払う方法を考えるよりは、丸めた新聞紙でパコンと叩いたり、手でパチンとやって殺しちゃったほうが簡単だよね。だから、我慢しなさい、見逃してあげなさいとは言わないけれど、忘れちゃいけないのは、人間から見て気持ちが悪い生き物や、刺してかゆい思いをさせたり痛い思いをさせる生き物も、好きでそうしているわけじゃないっていうこと。みんな生きるために必死なんだよ」
「じゃあ、人を噛む野良犬や、山から下りてきて、人に怪我をさせる熊、畑を荒らして農家の人を困らせる猿なんかの場合はどうだろう。殺していい動物はいないと言ったけれど、動物に殺されてもいい人間もいないんだ。人間も動物で、どちらにも生きる権利がある。お腹がすいたら、食べ物を食べたい、痛い思いや怖い思いをしたくない、死にたくないと思っているのはどっちも同じなんだよ。どんな動物を殺すか、殺さないかは、これから君自身が決めていくことなんだ」
子供に聞かせるには少し長くなってしまいましたが。
それと、話を分かりやすくするために、マタギのことをはじめ、あちこち割愛しました。
食べるためであれば、イルカや犬でも良いということですね。愛玩動物の定義はなんでしょうか?