アメリカあたりの映像を見ていると、国家機関の建物では、鷲の紋章などのマークが床に描かれていて、その上を普通に人が踏みつけて通過していきます。
一方、日本で、たとえば菊の御紋(天皇家の紋章)が宮内庁の床に描いてあって、それを踏みつけて歩くということはないような気がします(違っていたら教えてください)。
また、ずいぶん前になりますが、「料理の鉄人」でアメリカの料理人が試合終了後にまな板の上に立ったことに対して、日本の鉄人が強く非難したことなどもあったと記憶しています。
「踏みつける」という行為にたいして、日本・アジアと欧米を比較して論じているサイトがあったら教えてください。
アメリカで、踏みつけることを侮辱と意図したと思われる例を紹介します。
http://dreadscott.home.mindspring.com/whatis.html
http://www.tjcenter.org/ArtOnTrial/flag.html
芸術作品 "What is the Proper Way to Display a U.S. Flag?" (「国旗を展示する正しい方法とは?」)
http://kimigayososyo.hp.infoseek.co.jp/newpage21.htm
*国旗を踏みつける芸術作品展示に関して
一九八九年二月、黒人学生スコット・タイラーがシカゴ美術館で、星条旗を床にひき、人々が踏む作品(「国旗を展示する正しい方法とは」)を展示した。
この展示に対して、愛国団体が抗議のデモや展示会会場前でピケットをするなどの反対運動を展開した。デモの参加者は二五〇〇名にもなったという。
この事件をきっかけに、上院では九七対〇の圧倒的多数で、国旗を床にひいたり踏み付けたりすることを罰する法律を可決したが、一九八九年の最高裁判決は、この法案をも却下したこととなった。
しかし、下のようなものもあったりしますが。
http://www.shop-colour.net/Item/d/d0325/D0325.htm
U.S Flag Mat Series / U.Sフラッグ柄 マット・シリーズ
http://www.candytower.com/shop/interior_usaflag_3.html
【12645】星条旗のバスマット
http://www52.tok2.com/home/spaceman/tv/millennium/home.htm
アメリカのテレビドラマ「ミレニアム」では、キリストの聖遺物である十字架を、イスラム教徒がモスクの床下に埋め、
足で踏みつけることでキリストを侮辱していた、という(架空の)逸話が紹介されていたと記憶しています。
ちょっと方向性がちがいますが、本当のキリスト教信者だったらあの像を踏みつけるでしょう。
なぜならキリスト教の考え方は、民衆の苦しみをキリストが救ってあげると言う考え方だからです。ですから、あれを踏まなかった民衆は気味悪く思ったか、日本的だったかどちらかでしょう。
外国でよく警察などのマークを踏んでいますが、私が思うにアメリカではどこでも(部屋の中でも)靴でふんでいくことから象徴されると思います。日本のように部屋で靴を脱ぐ風習はないですからね。
適切なURLがなかったのでダミーでお願いします。
回答ありがとうございます。
キリスト教に限らず、絵を踏むくらいのことを許容しないような宗教はろくなもんじゃないとは思います。
現代の欧米のキリスト教の信者の方、あるいは日本人のキリスト教の信者の方に、実際に踏み絵を試した場合にどういう結果が出るかは、ちょっと興味があるところです(実際に調査出来るものではありませんが)。
部屋で靴を脱がないことが関係するのでは、との仮説はいまひとつピンと来ません。
http://d.hatena.ne.jp/ionndo/20041119
キリスト教全てをひとくくりで考えるのはどうなんでしょう?
カソリック、プロテスタントでも考えは異なるでしょうし…
http://www.h5.dion.ne.jp/~dr_manao/weekly/ESSAY/old/essayvol...
私の知っている範囲では、タイでは足の裏は不浄とされているので、人や大事な物を踏みつける行為はタブーとされています。
>キリスト教全てをひとくくりで考えるのはどうなんでしょう?
確かにそのとおりですね。
今回の質問の出発点は、某ドラマを見ていて、
紋章を踏みつけていく行為に違和感を感じたことからです。
とういうことで、宗教からストレートに導かれる結論というよりは、
その社会・文化にある「感覚」を知りたいという観点での回答を期待しています。
言い換えれば、「紋章を踏みつけることになぜ抵抗を感じるのか、感じないのか」です。
>タイでは足の裏は不浄とされているので、人や大事な物を踏みつける行為はタブーとされています。
なるほど。タイで強くそういう感覚があるとすれば、周辺のアジア圏でもそういう感覚があっても不思議ではないでしょうね。
ところで、なぜ足の裏は不浄なのでしょうか?
タイで足の裏を不浄としている理由は、
「足は人体で最も下に位置する部位だから」
だそうです。踏みつけるだけでなく、足の裏を人に向けることもタブーとされています。
この浄・不浄の感覚は、ヒンドゥー教を源としており、
仏教も影響を受けています。
これらの宗教のいづれかが浸透している、またはしていた国や地域では、
程度の差を含むとしても、共通した浄・不浄観を持っていると考えられます。
仏教やヒンドゥー教が浸透していない欧米の感覚に違和感を覚えるケースが出てくるのも自然でしょう。
「足は人体で最も下に位置する部位だから」
というのなんとなく納得しちゃいそうなんですが、
なぜ下を汚いと考えるのかにも疑問がでてきます。
食品衛生的な面から、民衆を教育するためにそういうことにしてしまったほうがわかりやすい、
というあたりが原点でしょうか?
結局のところ、私の違和感はアジア的感覚の発露なのですかねぇ・・・
アメリカで、踏みつけることを侮辱と意図したと思われる例を紹介します。
http://dreadscott.home.mindspring.com/whatis.html
http://www.tjcenter.org/ArtOnTrial/flag.html
芸術作品 "What is the Proper Way to Display a U.S. Flag?" (「国旗を展示する正しい方法とは?」)
http://kimigayososyo.hp.infoseek.co.jp/newpage21.htm
*国旗を踏みつける芸術作品展示に関して
一九八九年二月、黒人学生スコット・タイラーがシカゴ美術館で、星条旗を床にひき、人々が踏む作品(「国旗を展示する正しい方法とは」)を展示した。
この展示に対して、愛国団体が抗議のデモや展示会会場前でピケットをするなどの反対運動を展開した。デモの参加者は二五〇〇名にもなったという。
この事件をきっかけに、上院では九七対〇の圧倒的多数で、国旗を床にひいたり踏み付けたりすることを罰する法律を可決したが、一九八九年の最高裁判決は、この法案をも却下したこととなった。
しかし、下のようなものもあったりしますが。
http://www.shop-colour.net/Item/d/d0325/D0325.htm
U.S Flag Mat Series / U.Sフラッグ柄 マット・シリーズ
http://www.candytower.com/shop/interior_usaflag_3.html
【12645】星条旗のバスマット
http://www52.tok2.com/home/spaceman/tv/millennium/home.htm
アメリカのテレビドラマ「ミレニアム」では、キリストの聖遺物である十字架を、イスラム教徒がモスクの床下に埋め、
足で踏みつけることでキリストを侮辱していた、という(架空の)逸話が紹介されていたと記憶しています。
実は国旗は別物で、踏むようなことはないよなぁと思っていたので、
U.Sフラッグ柄マットというのはちょっと衝撃(笑)
もうアメリカ人の感覚は違和感を通り越して、よくわかりません・・・
>なるほど。タイで強くそういう感覚があるとすれば、周辺のアジア圏でもそういう感覚があっても不思議ではないでしょうね。
ところで、なぜ足の裏は不浄なのでしょうか?
インドでもウンコを拭く左手は不浄の手だし(ウンコはカレーに似てる)
ちなみに小便小僧は、左手で持ってます。
そんでウンコを拭く手=汚い 足=汚い というのがあるんじゃないでしょうか。
左手も、足も、上にも書きましたが、食品衛生的な面から、民衆を教育するためにそういうことにしてしまったほうがわかりやすい、ということですかね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582850030/503-7472...
URLは、「日本の無思想」加藤典洋の紹介です。
たしか、関連する記述があったように思います。
「キリスト教を信じている」という事を口に出しただけでも、あっという間に、オカミに摘発され、殺害される世の中でした。そのような時に、踏み絵を目の前に置かれるということは、「お前は実は心の底では、キリストを信じているのではないか?」というように糾問されているという事なのですね。
そのような時に、「その通りだ!」と叫ぶ、あるいは踏み絵を踏む事を拒絶する。そのようにして、「実は私は、心の底ではキリスト教を信じているのだ」ということを、「口に出す」あるいは「態度に示す」。それこそが、「イエス様を信じる」という事なのだ!」・・・キリシタンならば、このように考えるのでしょう。こういうところから、「踏み絵」を提案したのは、元キリシタンの転向者だったと推測します。ですから、この方法で愚直に、ちょっと嘘つけばいいのに、キリシタンが次から次へと摘発できると知った時には、幕府の役人は驚いたでしょう。
絵が聖なるものであり、それを踏むことが冒涜なのである、と考えたのは、踏ませた側なのです。そして踏むことを拒否して殺害されたのは、聖なるものを冒涜できなかったから、ではなく、糾問に対して、あえて「相手の意図する」信仰否定の態度をとってみせることができなかったから、なのであります。
なので、「踏む」行為に「冒涜」の意味を感じるのは、キリシタンの側でなく、オカミの側、すなわち、日本の伝統的な文化の側、おそらく、神道でいうところの「ケガレ」の発想なのだと思います。なので、「踏み絵」に関しては、世界の共通感覚に関連する、というよりは、逆に、日本の伝統的感覚に由来する、と考えます。
多くの日本人が、「踏み絵」の記述を歴史の教科書で読んだときに、
そういうことをすればキリシタンが見つけられるのだと、すんなりと受け入れていると思います。
これをみても、「踏み絵」が日本人の感覚に由来する行為であることは間違いないとは思います。
で、結局、欧米にはそういう感覚はなさそうだ、ということで結論づけていいんでしょうか?
実は国旗は別物で、踏むようなことはないよなぁと思っていたので、
U.Sフラッグ柄マットというのはちょっと衝撃(笑)
もうアメリカ人の感覚は違和感を通り越して、よくわかりません・・・