私は睡眠は死の予行練習だと思っています。
死は・・ついにきた本番・・ですね。
生きることに特に意味はないと思ってますので
死もそれ以上の意味はないと考えてます。
客観的には。
生命体が、何らかの原因で生命活動を維持できなくなり、動的活動が停止して、自己定常性が崩壊していく現象を死といえます。
主観的には。
「己」という体験や知識を蓄積してきた記憶と認識に織り成されたひとつの世界の消滅だと表現できるでしょうか。
「主観的な死」と「客観的な死」をわけている理由は、他人の死は認識できるが、自分の死は認識できない(死んだ瞬間に認識主体たる「己」は消えているので)点にあります。
なぜなら、死んだのが自分か他者かというちがいは、生という存在の意味において大きく異なってくると思われるからです。
・死
ありがとうございます。
主観と客観による違いはあると思います。
ここらへんは「自殺は罪か」ということにもからんできそうです。
人間自身を構成する物質はある周期ですべて入れ替わってしまうそうですが、そう考えると
人というのも流れに浮かぶ泡沫のような気もします。
2.人は、どの時点で死を見つめるのか。
死を直視した者は、だれも戻って語らない。
── だれも歴史を見ることはできない。草が成長するのを見ることも
ないように……。── Simon, Claude《Histoire 1967‥‥ France》
── 脳死とは突然死によって他の臓器が生きている状態である。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920613
── 《六月十三日の死と愛 199206‥ 歴史研究》P052-053
ありがとうございます。
以前から考えている不思議なことは
良くSFですべての記憶をコンピューターに移植して本人もコンピューターの中の電脳世界に生きるという設定がありますが、
本人が死んでしまうので、本人は自分が死ぬと認識すると思います。
もし、脳の一部を少しずつ移植していったら、
手術のたびに寝て起きているとしたら、どの瞬間で自分は本人から機械の体になったと思うのでしょうか。
それは本人の主観でしかわからないし、本当かどうかも確かめることはできませんが、
すごく気になります。
脳の半分以上を移植した瞬間、その人は起きたとき、機械の体の方で目覚めるのでしょうか。
それは本人しか分からないことです。
・生命のあるのもから命がなくなったとき。
・誰の記憶からもいなくなったとき。
・建造物が朽ちていくとき。
・何者もすむことが出来ない土地、海、など。
ではないかなと思います。
ありがとうございます。
>・誰の記憶からもいなくなったとき。
まったく知り合いの居ない場所で、誰にも知り合いにならずに生きていくと
それは死んでいることと同義なのかも知れませんね。
生物学的な定義で答えます。
生物学的な死とは、代謝が停止することです。
生きているというのは、宇宙から見れば異常な状態で、死が安定状態です。
また、生物が生きている状態とは燃焼の一種だという考え方も存在します。
死とは、この生物の燃焼が終わり、無機物に帰っていく過程だということができると考えます。
死 - Wikipedia
ありがとうございます。
突き詰めれば燃焼は一つの生命なのかも知れませんね。
人はなぜ死をみて涙を流すのでしょうか。
ありがとうございます
人が一人で生きて行くことは死んでいるのとあまりかわりが無いのかも知れませんね。
一時期、ドイツの哲学者ハイデガーの文献を読んでいました。
彼によると、死というものは、自分自身の人生の有限性に気づかせると同時に、
自分が生きている、存在していることの重みを自覚させ、自分自身のあり方を真剣に考えさせるようになる動機です。
死の自覚を通じて、人間は生きていることの喜びを知る。そして、本来的な生き方をすることができる。
死とはそのようなものであると、彼は述べていました。
以下、『ソフィーの世界』の抜粋です。
ソフィーは、ひとしきり、私はいる、と考えた。すると、いつまでもいるわけじゃないと考えないわけにはいかなかった。今、私はこの世界にいる。でも、いつかある日、私は消えてしまう。死後の生はあるのだろうか? この問いも、猫にはさっぱりわからない。ついこの間、祖母が亡くなった。それから半年以上、ソフィーは毎日のように、祖母のいない寂しさを噛みしめたものだった。生命に終わりがあるなんて、そんなのあんまりだわ!
ソフィーは砂利道に立ったまま考え込んだ。私はいつまでも生きているわけではない、ということを忘れようとして、一心に、私は生きているとだけ考えようとした。けれどもまるでだめだった。私は生きていると考えれば考えるほど、この生命は何時かは終わるという考えもすぐに浮かんでくる。その反対でも同じだった。私はある日すっかり消えてしまう、と強く実感して初めて、生命は限りなく尊いという思いも込み上げてくる。・・・中略・・・。
人は、いつかは必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない、とソフィーは考えた。そして生の素晴らしさを知らなければ、死ななければならないということをじっくりと考えることもできないと。ソフィーは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。「人生はなんて豊かなんだろう。今ようやくそれがわかった」。たいていの人が、生きることの素晴らしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。
死の自覚と生きることのすばらしさを知るには、「みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに」と書かれている。「謎の手紙」とは、「哲学者からの不思議な手紙」という副題のついた『ソフィーの世界』のことである。いま引用した言葉は、『ソフィーの世界』の導入部に書かれている。したがって、この『ソフィーの世界』は、ハイデガーのことについて直接何も言っていないが、それ全体がハイデガーの哲学の紹介であるのは、これによって明らかである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A...
ありがとうございます。
>死の自覚を通じて、人間は生きていることの喜びを知る。そして、本来的な生き方をすることができる。
ありがとうございます。
死と睡眠の関連は気になります。
眠ったまま、もし起きなければ、自身が死んだことすら気がつかないのでしょうか。