根拠のない自信を持つデメリットや、根拠のある自信のつけ方は不要です。
「無条件に自分を信じてあげる」ことが、
その根拠なき自信に近いのではないかと思います。
サイモン・レイノルズが著書で、論じていることに似ています。
下記に日本語で引用されています。:
http://www.shiawasehp.net/diary/200709/30.html
そもそも自信の定義とは…「自分で自分の能力や価値などを信じること。
自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。」ですので、
それを無条件に(○○だから、信じる、とかの条件付きではなく、)
単に「世界で一人だけの自分だから」と価値を認めて信じることが、
その様な根拠のない自信につながると思います。
母親が無条件に子供に愛情を注ぐことにも似ているようです。
他人より優れているからなどは無関係に、他でもない
「自分の子供だから」愛することに似てると思います。
特にイタリア人にそういう徹底楽天主義の人が多いのですが、
どうもマンマが小さい頃から、無条件で子供の価値を認め、
それはそれは、見てる方が恥ずかしくなるくらいの愛情表現をして、
あなたはすごい!世界一のバンビーノよ!世界一愛してる!って、
育てているようなのですね。それで遺伝もあるのか、
環境もあるのか、本人も特に根拠はないが、物心ついた時から、
やたらと自分の全てを無条件に信じていて、
実際に社会でどうであれ、無条件に自分を信じているため、
生まれつきの気質みたいな感じで、徹底した楽天主義の人が多いです。
そして、どんな状況にあっても、特に理由もなく
「なんとかなるさ」という変な自信を持っていて、
実際(例え自分一人の力ではなくても)何とかなるさとか、
何とかしてみせる、いやあわよくばなんとかしてもらおうwって感じで、
周囲からすると、本当に大丈夫なのか?という場合もあるのですが、
それでも彼らは集団性が高いので、人に助けてもらったりすることを
恥には思わず、あつかましいほどにばんばん頼み事をし合っています。
それでも、「あーそれは僕らは周囲に愛されていて、
だからみんな助けてくれる!」(?)みたいなことを言っていて、
日本人の目から見たら、衝撃的に楽観的な人達が多いのですが、
社交だけはすごい大切にしていて、いつも陽気で楽しいです。
日本人のまじめなA型気質とは対照的で、
そこまでいい加減でいいの?その根拠のない変な自信は何?と
周囲の方が心配になるくらいなのですが、あやうい人を見ると、
つい親切で助けたくなってしまうボランティア好きの
英国人や日本人の多い所にイタリア人が混ざっていると、
結構美味しいどこ取りをされているかのような気もします。
でも、根拠のない自信があるからと言って、
決して実際にデキる人(キャラ)ではない場合もありますよ。
しかし、それでも、笑って許されてる感じがするのですが…
英国人は国民性で、世の中の人はせいぜい自分と同じレベルか
もしくはそれ以下だから助けてあげなくてはならないというのを
ボランティア精神の根底に持っているので、妙な自信はあります。
でもみんなそこまで自分大好きなんだね、信じてるのね、と
いうのがなんとなく伝わってくると、別に迷惑な範囲でなければ、
まあそれもいいか、私もOK, あなたもOK!みんなOK!
各自がユニークで違ってて当然だから、存在の意味があり、
別に同じにする必要はないとか、だから世界には色んな人達がいて
面白いって感じで、笑って済ませてる感じです。
中には冷笑的な人もいますが、ムキになる辺り、その人は
もしかしたら、自ら無価値観に苛まれ、自分に自信がないから
他人の自信も認めてあげられない人なのかもしれませんが、
それは少数派のような気がします。
そのため、誰も他人の根拠のない自信でも特に否定しないし、
自分以外のは特に肯定することもない。興味ないというか…
別に持っててもいいんじゃない?個人の自由という感じです。
逆に言えば、根拠のある自信の場合は、例えば、
世界記録保持者がそれだけに頼って自信を持っていた場合、
その記録が誰か他の人に破られた時に、自信を喪失しかねませんが、
根拠がない場合、その自信をなくす心配も一切ないので、
そういう意味では根拠がない自信の方が、根強い感じがします。
根拠がないので、なんで自分をそこまで信じられるのか?と
聞かれても「だって、他でもない自分だからさ!だから信じてる。」
とくらいしか教えてもらえないと思いますが、多分本当に
「自分だから、信じてる。信頼してる。」だけのようなので、
それ以外の根拠はないと思います。
強いていえば、自分大好きなんだろうな〜というのが
伝わってくると同時に、何か理由もなく幸せそうで羨ましいです。
よって、根拠のない自信をつける方法とは、
「自分のことを、『自分だから』無条件に信じてあげる。」
ことではないかと思います。
自分の長所を書き出してみて、○○だから好きとか、
だから信じるという条件や理由付きではなく、
他でもない自分だから、理由はないけど、
まあ好きだし、信じてるという信頼の感覚が、
そういう自信につながるのだと思います。
只、国民性というか社会性に関して言わせてもらえれば、
日本では謙虚な姿勢が文化的に美徳とされていますので、
あまり根拠のない自信を他人にひけらかすと社会的に
なじめなくなることもあるかもしれませんので、
自然と謙虚に暮らすうちに、自信ってなんだったっけ?
理由もなしに自信を持っていいのか分からない、という
空気が漂いはじめて、それが実際はかなりできる人たちなのに、
自信の有無に理由をつけ始めてしまったので、
それが自信のなさに繋がってしまうのではないかと思います。
歴史的にも「恥の文化」と言われる文化や、
年功序列等で身分をわきまえた行動も強いられてきましたし、
おまけに天皇制では某天皇様を生き神と信じた結果、敗戦…。
何を信じていいのか分からない様な社会不安もあったりして、
とりあえずがむしゃらに働いて社会復興はしてきたものの、
物質的な豊かさを得た後には、長引く不況…。
どこかで自信を回復するための癒しを求めていたりして、
そういう環境の中で、人間が本来持っていた
自分を信じるということが少し分からなくなってきて、
それで自分の根本的な価値が信じられなくなった人が
無価値感から自分を大切にできずに、自殺率などが
世界的な高さに達してしまった部分も
あったのではないかと思います。
そう思うと、それなりに自信をなくす理由、
(または「根拠」)だけはあったのかもしれません。
なので、根拠もない自信って、どうやって得るのかが
分からなくなっても、不思議ではないかもしれません。
誰しも本当に無価値な人なんていないと思うのですが、
「成人が」というこの質問は、深いです。
ある程度の年齢に達すると、人はそれぞれが長年築き上げてきた、
慣れ親しんだセルフイメージの様なものを持っていて、
誰かがどうこう言ったりしたところで、
それを特に理由(根拠)もなしに、変えるというのは、
なかなか容易ではないからです。
とりあえず、「世界にただ一人の『あなた』ですので、
今日から無条件にご自分を信じてあげて下さい。
他の誰でもないその希少な存在の価値を認めてあげて、
自己を信頼してあげて下さい。」くらいしかしか
書けませんが、これは無条件なオファーですので、
特に受け入れる理由(条件)もなければ、
特に受け入れない理由(条件)もないものです。
無条件却下はあり得ますのでw、信じる・信じないないかは、
その人の自由で、方法だけは書けますが、実際にこれによって、
成人の誰しもに根拠のない自信が必ずしもつくとは言えません。
信じられる人には効くだろうし、そうでない人には効かないでしょう。
でも方法はありますよ、ということだけは申しあげたいです。
根拠が無くても、イメージトレーニングで、自分がすごいというイメージを作り上げれば、自信がつきます。
http://counselinglife.com/selfimagejishin2009.2.html
http://zaisan.blog8.fc2.com/blog-category-3.html
http://気が弱い.イワナ.com/w.html
ご回答ありがとうございます。
自分以外の人間は全部自分より下だと思えばよいです。
自分と価値観が違う、所詮偽善者、ろくに努力をしていない、物事の本質を理解していない、
しょうもないことで騒いだり、喜んだりしている、マスメディアにおどらされている、
スタイルやファッションなどどうでもいいことにこだわっている、などなど。
なにか当てはまると思いますので、あとはご自身の性質との兼ね合いで適当に人を
見下せば自信がつくでしょう。
弊害が大きすぎます
欧米の方は、そういった方たちが多いですね。
ずばり、目標を高く持ち続けることが根拠の無い自信を持つことにつながります。
一見当たり前かもしれませんが、日本人の場合、自分の限界を定めたり周りの目を気にしがちです。
横並びの人間に気を遣ったり、自分の根拠の無い目標に恥を覚えたりしない"目標"に忠実に生きることがポイントだと思われます。
自分や他人を否定する姿勢はやめましょう。
むしろ、自分や他人を高く評価する姿勢を持ち、
行動が心理を動かすこともあります。経験則を考慮せずにチャレンジし続けることは自信を付ける秘訣ではないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
目標を高く持ち続ける事と、根拠の無い自信を持つ事がどうつながるのかよくわかりませんでした。
「根拠のない自信」=「自己肯定感」です。私がこの言葉を初めて知ったのは、下記URLの本でした。と言っても、前の前の版で文庫本タイプでした。その本によると、肯定的に話を聞いてあげると、相手の自己肯定感が高まると書いてありました。ということで、それを自分が人からしてもらえばいいわけで、どんなことを言っても、うなずいて話を聞いてくれる人を見つけて、話を聞いてもらうのはどうでしょうか。
●心理分析ができる本 [単行本(ソフトカバー)] 斉藤 勇 (著)
ネットでもちょっと検索してみました。参考までに。
※参考URL
●*青い空と白い雲* 根拠のない自信
「根拠のない自信」とは、自己肯定感と同じ意味です。
「根拠のない自信」というのは、「なんとなく自分にはできる気がする」という感情です。
「こういう条件なら自分はできる」ということではなく、漠然とした自信で、これこそが
自分を信じる力です。
http://dendenhome2002.blog18.fc2.com/blog-entry-1602.html
●「自己肯定感が低くなってしまったらどうするか」 - 森へ行こう(心と ...
具体的には、まず自分の感覚を肯定することです。そして、自分の感覚と対話することです。また、子どもや周囲の人を信じることです。そして、任せることです。
自分を肯定することが出来ない人は自分の感覚も、他の人も肯定することが出来ません。だから、まず自分の感覚や他の人を肯定することから始めるのです。そしてあせらないことです。機が熟せば自然と変わっていくものです。それまで気長に待ってください。
自己肯定感が低い自分を否定しないで、そのまま受け入れてあげて下さい。
それが自分の自己肯定感を育てるための第一歩です。
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201003060000/
●根拠のない自信を強化! ~素敵な恋愛を引き寄せる秘訣~|恋愛テクニック
「彼を幸せにしてあげたいと思える私。。。」それは、実は無意識の中では、とっても大きな自己価値を生み出すんです。
ご回答ありがとうございます。
根拠のない自信とは自己肯定感である、ですか。
近いけど違うと思います。
自己肯定感なしには根拠のない自信は湧いてこないと思いますが、十分条件ではない。
自分を否定していない人でも、大きな目標に対してできる!と思えるかどうかは別問題でしょう。
自己肯定感だけでは足りないのだと思います。
>「根拠のない自信」というのは、「なんとなく自分にはできる気がする」という感情です。
「こういう条件なら自分はできる」ということではなく、漠然とした自信で、これこそが自分を信じる力です。
ここは同意できるのですが。
・サブリミナルCDや自己暗示をかける
・あまり詳しく調べずにとりあえず始めてみる
こんなところでしょうか。
あの・・・はてなで回答できるレベルには達してないのでご遠慮願いたいです。
催眠術研究所のような所で「根拠のない自信」をつける催眠術をかけてほしいと言うと断られることが多いでしょうから、以下の方法で自己催眠を行ってはいかがですか?
>私の催眠療法では、独自に開発したオリジナルの催眠CD、独自の理論を活用し、両者のメリットを生かす方法を取っています。
・・・一応考慮します
「無条件に自分を信じてあげる」ことが、
その根拠なき自信に近いのではないかと思います。
サイモン・レイノルズが著書で、論じていることに似ています。
下記に日本語で引用されています。:
http://www.shiawasehp.net/diary/200709/30.html
そもそも自信の定義とは…「自分で自分の能力や価値などを信じること。
自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。」ですので、
それを無条件に(○○だから、信じる、とかの条件付きではなく、)
単に「世界で一人だけの自分だから」と価値を認めて信じることが、
その様な根拠のない自信につながると思います。
母親が無条件に子供に愛情を注ぐことにも似ているようです。
他人より優れているからなどは無関係に、他でもない
「自分の子供だから」愛することに似てると思います。
特にイタリア人にそういう徹底楽天主義の人が多いのですが、
どうもマンマが小さい頃から、無条件で子供の価値を認め、
それはそれは、見てる方が恥ずかしくなるくらいの愛情表現をして、
あなたはすごい!世界一のバンビーノよ!世界一愛してる!って、
育てているようなのですね。それで遺伝もあるのか、
環境もあるのか、本人も特に根拠はないが、物心ついた時から、
やたらと自分の全てを無条件に信じていて、
実際に社会でどうであれ、無条件に自分を信じているため、
生まれつきの気質みたいな感じで、徹底した楽天主義の人が多いです。
そして、どんな状況にあっても、特に理由もなく
「なんとかなるさ」という変な自信を持っていて、
実際(例え自分一人の力ではなくても)何とかなるさとか、
何とかしてみせる、いやあわよくばなんとかしてもらおうwって感じで、
周囲からすると、本当に大丈夫なのか?という場合もあるのですが、
それでも彼らは集団性が高いので、人に助けてもらったりすることを
恥には思わず、あつかましいほどにばんばん頼み事をし合っています。
それでも、「あーそれは僕らは周囲に愛されていて、
だからみんな助けてくれる!」(?)みたいなことを言っていて、
日本人の目から見たら、衝撃的に楽観的な人達が多いのですが、
社交だけはすごい大切にしていて、いつも陽気で楽しいです。
日本人のまじめなA型気質とは対照的で、
そこまでいい加減でいいの?その根拠のない変な自信は何?と
周囲の方が心配になるくらいなのですが、あやうい人を見ると、
つい親切で助けたくなってしまうボランティア好きの
英国人や日本人の多い所にイタリア人が混ざっていると、
結構美味しいどこ取りをされているかのような気もします。
でも、根拠のない自信があるからと言って、
決して実際にデキる人(キャラ)ではない場合もありますよ。
しかし、それでも、笑って許されてる感じがするのですが…
英国人は国民性で、世の中の人はせいぜい自分と同じレベルか
もしくはそれ以下だから助けてあげなくてはならないというのを
ボランティア精神の根底に持っているので、妙な自信はあります。
でもみんなそこまで自分大好きなんだね、信じてるのね、と
いうのがなんとなく伝わってくると、別に迷惑な範囲でなければ、
まあそれもいいか、私もOK, あなたもOK!みんなOK!
各自がユニークで違ってて当然だから、存在の意味があり、
別に同じにする必要はないとか、だから世界には色んな人達がいて
面白いって感じで、笑って済ませてる感じです。
中には冷笑的な人もいますが、ムキになる辺り、その人は
もしかしたら、自ら無価値観に苛まれ、自分に自信がないから
他人の自信も認めてあげられない人なのかもしれませんが、
それは少数派のような気がします。
そのため、誰も他人の根拠のない自信でも特に否定しないし、
自分以外のは特に肯定することもない。興味ないというか…
別に持っててもいいんじゃない?個人の自由という感じです。
逆に言えば、根拠のある自信の場合は、例えば、
世界記録保持者がそれだけに頼って自信を持っていた場合、
その記録が誰か他の人に破られた時に、自信を喪失しかねませんが、
根拠がない場合、その自信をなくす心配も一切ないので、
そういう意味では根拠がない自信の方が、根強い感じがします。
根拠がないので、なんで自分をそこまで信じられるのか?と
聞かれても「だって、他でもない自分だからさ!だから信じてる。」
とくらいしか教えてもらえないと思いますが、多分本当に
「自分だから、信じてる。信頼してる。」だけのようなので、
それ以外の根拠はないと思います。
強いていえば、自分大好きなんだろうな〜というのが
伝わってくると同時に、何か理由もなく幸せそうで羨ましいです。
よって、根拠のない自信をつける方法とは、
「自分のことを、『自分だから』無条件に信じてあげる。」
ことではないかと思います。
自分の長所を書き出してみて、○○だから好きとか、
だから信じるという条件や理由付きではなく、
他でもない自分だから、理由はないけど、
まあ好きだし、信じてるという信頼の感覚が、
そういう自信につながるのだと思います。
只、国民性というか社会性に関して言わせてもらえれば、
日本では謙虚な姿勢が文化的に美徳とされていますので、
あまり根拠のない自信を他人にひけらかすと社会的に
なじめなくなることもあるかもしれませんので、
自然と謙虚に暮らすうちに、自信ってなんだったっけ?
理由もなしに自信を持っていいのか分からない、という
空気が漂いはじめて、それが実際はかなりできる人たちなのに、
自信の有無に理由をつけ始めてしまったので、
それが自信のなさに繋がってしまうのではないかと思います。
歴史的にも「恥の文化」と言われる文化や、
年功序列等で身分をわきまえた行動も強いられてきましたし、
おまけに天皇制では某天皇様を生き神と信じた結果、敗戦…。
何を信じていいのか分からない様な社会不安もあったりして、
とりあえずがむしゃらに働いて社会復興はしてきたものの、
物質的な豊かさを得た後には、長引く不況…。
どこかで自信を回復するための癒しを求めていたりして、
そういう環境の中で、人間が本来持っていた
自分を信じるということが少し分からなくなってきて、
それで自分の根本的な価値が信じられなくなった人が
無価値感から自分を大切にできずに、自殺率などが
世界的な高さに達してしまった部分も
あったのではないかと思います。
そう思うと、それなりに自信をなくす理由、
(または「根拠」)だけはあったのかもしれません。
なので、根拠もない自信って、どうやって得るのかが
分からなくなっても、不思議ではないかもしれません。
誰しも本当に無価値な人なんていないと思うのですが、
「成人が」というこの質問は、深いです。
ある程度の年齢に達すると、人はそれぞれが長年築き上げてきた、
慣れ親しんだセルフイメージの様なものを持っていて、
誰かがどうこう言ったりしたところで、
それを特に理由(根拠)もなしに、変えるというのは、
なかなか容易ではないからです。
とりあえず、「世界にただ一人の『あなた』ですので、
今日から無条件にご自分を信じてあげて下さい。
他の誰でもないその希少な存在の価値を認めてあげて、
自己を信頼してあげて下さい。」くらいしかしか
書けませんが、これは無条件なオファーですので、
特に受け入れる理由(条件)もなければ、
特に受け入れない理由(条件)もないものです。
無条件却下はあり得ますのでw、信じる・信じないないかは、
その人の自由で、方法だけは書けますが、実際にこれによって、
成人の誰しもに根拠のない自信が必ずしもつくとは言えません。
信じられる人には効くだろうし、そうでない人には効かないでしょう。
でも方法はありますよ、ということだけは申しあげたいです。
ご回答ありがとうございます。
>よって、根拠のない自信をつける方法とは、
「自分のことを、『自分だから』無条件に信じてあげる。」
ことではないかと思います。
『自分だから』『信じてあげる』ですか・・・
信じるじゃなくて、信じてあげるというのが新鮮ですね。
信じてあげる理由も、「自分だから」で十分なのかもしれませんね。
具体的な方法論ではありませんでしたが、この考え方は中々響きました。
私が根拠のない自信を持つ方法です。フィーリングに合わなかったらごめんなさい。
人は常に「思い通り」に生きている!
何かを選択しながら最終的に決めていますよね?
入りたい大学に入れなかった→入るまでがんばる思いより、諦めるという思いが強かった(つまり思い通りになってます)
会社、結婚相手、仕事内容、すべての結果は自分が思った通りになると考えています。
だから、これはできる!と思ってしまえば「思い通りツール」が勝手に体内にダウンロードされて、思いにあわせた事柄が起こる。
逆に言うと、思いとは違うことがおきても、この出来事は思い通りになるための布石であって、これがなきゃ思い通りには進まないことになってるんだ、とポジティブな解釈で根拠のない自信をつけております。
ちなみに、結構ハッピーですよ!
ご回答ありがとうございます。
前半部分はある程度納得できます。
面白い考え方ですね。
この手の自信に関する問題はいくらか考えたことがありますが、今のところ結論としては、「一般解はない」といった感じで見ています。
ケースバイケースといえば身も蓋もありませんが、自分に自信を持てるようになるための方法といったものは、誰にでも普遍的に成立するような一般的な手法というものはそうやすやすと見出せるものではないのだろうと考えているといいますか。(一応、薬物や暗示による人間の内面への操作的関与の技術を抜きにすれば、の話ですが)
そのこと念頭に置いた上で思うに、まず発想の出発点としては、「自信を持ちたいと望んでいる人達それぞれが自分なりの方法で自分自身というものと向き合い、そこから自信を手に入れる方法を模索していく」という自己と向き合うという考え方があります。
逆に考えれば判りやすいんですが、「なぜ今、自分は自分自身に自信が持てないんだろう」というその原因が判らなければ、自信の手に入れ方につながらないのではないでしょうか。自信を失っている理由は十人十色でしょうから、それぞれの人達がその人なりに抱えている当人自身の問題を飛び越して、誰もが一足飛びに手に入れられる「無根拠な自信を得る方法」というものに飛びつこうと考えることに、自信という心持ちの有り方との矛盾を感じなくもありません。
と、このような前置きを踏まえて自信について個人的に思うところを述べますと、やはりポイントの一つとして考えられるのは、成功体験の積み重ねではないかと思います。いきなり大きな成功体験を得ようとしても、逆に失敗してさらにへこむだけでしょうから、小さなことからコツコツと、むしろいま自分が当たり前に行えていることが、実はそれは全て成功体験であるのだと自覚するようなところから始めていった方がやりやすいかもしれません。
少々詭弁っぽい言い方かもしれませんが、自分が当たり前にこなしていることや、今手にしているものがとても凄いということは割りとありうる話で、ですが人は自分が手に入れてしまったものは無意識化してしまって、気がつかなくなるということが非常に多いです。自分が既に手にしている成功を理解しないまま、大きな成功ばかりを目指して失敗するという挫折を繰り返していると、自分への自信が削られていく一方で、気分的にいい傾向とはいえません。名付けるなら、《あえて下を見るメソッド》とでも申しましょうか。
とまあ、いま自分が手にしている範囲内では、実は人は無根拠に自信を持っていて、自信たっぷりすぎるから意識されず、無根拠な自信に気づくこと(手に入れること)が難しいように出来ているものなのではないだろうかと。無意識に成功し続けている様々なことに気づくことができれけば、その発見の分だけ実は既に自分が持っていた無根拠な自信なるものを再確認できるでしょう。
また心理的な別の側面からいうと、他の人との競争に勝つことを成功とする体験をあまり気にしないようにと、競争をあまり意識しないようにしながら、まずは自分自身が立てた達成可能な目標をコツコツとこなし、その自分の目標を少しずつ自分の能力の高まりにあわせて無理をせずに徐々に引き上げていくといった心の持ち方に変えていくように気をつけていくと、気分的な負荷が軽減されていくのではないかと思います。
イメージとしては、心のリハビリみたいな感じでしょうかね。
自分も関心があるテーマだったもので長文になってしまいました。とりとめのない回答で失礼しました。
ご回答ありがとうございます。
考えさせられるポイントがとても多かったです。
メモ。
>今のところ結論としては、「一般解はない」といった感じで見ています。
>自分が当たり前にこなしていることや、今手にしているものがとても凄いということは割りとありうる話で、ですが人は自分が手に入れてしまったものは無意識化してしまって、気がつかなくなるということが非常に多いです。自分が既に手にしている成功を理解しないまま、大きな成功ばかりを目指して失敗するという挫折を繰り返していると、自分への自信が削られていく一方で、気分的にいい傾向とはいえません。名付けるなら、《あえて下を見るメソッド》とでも申しましょうか。
少々特殊な事例になりますが、私の事例を述べさせて頂くと。
大学に入った初っぱなの新歓の自己紹介で、「私はバギ星人です!」と宣言しました。
当然ひかれましたが、しかし「こいつはただ者じゃない」→「こいつは何をやってもしょうがない」→「こいつなら何をやっても許される」→「こいつにしか任せられない事がある」という好循環が生まれ、根拠のない自信が生まれました。
質問内容を拝見すると、質問者の方がどなたか別の方に「根拠のない自信」を持たせたいように見受けられますので、とにかくその方をまず肯定しまくってあげる事が良いのではないでしょうか。
あと、自己肯定も大事だと思います。
やはり大学生の頃に「それ以上でもそれ以下でもない」という言葉を編み出したのですが、これは「数学的にはこれはあり得ない話だが、それでも自分(自分の主張)はここにいる」という、究極の自己肯定の発想です。
(最近、この言葉を間違った用法で政治家が使っていたりして、苦笑する事しきりですが)
ただし、自己肯定は本人にしかできない事なので、周りがどうこう言ってそれをさせるのは難しいでしょう。
私は、この考えに致るまでに、逆に徹底的な自己否定の過程がありました。そういう意味ではリスクが高いです。
ただ、「自分の存在を考える時間を与える」事は出来ると思います。
とにかく、最終的には本人にしかできない事なので、周りはその人を安直に否定することなく成長を手助けしていく、という事になるのではないでしょうか。
ご回答ありがとうございます。
まあとりあえず無根拠な自信を持ちたいのは僕自身でして。
「肯定しまくってもらう」のはなんかこそばゆいというかいたたまれません。
自己肯定は上でも書きましたとおり十分条件とは思われませんが、重要なのでしょう。
で、成人が自己肯定感を刷り込むにはどうするんだっけ・・・
ご回答ありがとうございます。
>よって、根拠のない自信をつける方法とは、
「自分のことを、『自分だから』無条件に信じてあげる。」
ことではないかと思います。
『自分だから』『信じてあげる』ですか・・・
信じるじゃなくて、信じてあげるというのが新鮮ですね。
信じてあげる理由も、「自分だから」で十分なのかもしれませんね。
具体的な方法論ではありませんでしたが、この考え方は中々響きました。